となりのトトロ

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「となりのトトロ」雑学ノート

「となりのトトロ」は1988年4月16日に東宝系で日本公開された、
昭和30年代前半の牧歌的で懐かしい日本の風景を舞台にしたファンタジーです。

田舎へ引っ越してきた草壁家のサツキとメイの姉妹と、
不思議な生き物「トトロ」との交流を描きます。

ここでは「となりのトトロ」についての「へー!」「なるほどー!」な
雑学をご紹介します!

監督宮崎駿
脚本宮崎駿
出演者日高のり子
坂本千夏
糸井重里
島本須美
高木均
音楽久石譲

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雑学その1:公開当時の反響ってどうだったの?

観客動員数は約80万人で、
配給収入は5.9億円と『風の谷のナウシカ』を大きく下回りましたが、
(ちなみにナウシカの観客動員は約91万5千人、配給収入は約7.4億円でした。)
その年のキネマ旬報の「日本映画ベストテン」第1位など、
日本映画関係のさまざまな作品賞を獲得しました。


雑学その2:キャッチコピーが2種類あった?

キャッチコピーは
「このへんな生きものは まだ日本にいるのです。たぶん。」と
「忘れものを、届けにきました」のふたつ。

前者は糸井重里によるもので、
後者は同時上映された『火垂るの墓』との共通コピーです。


雑学その3:イッセー尾形が出演予定だった!?

サツキとメイの父親の草壁タツオ役で
当初俳優のイッセー尾形が声優をつとめる予定でした。

しかしイッセー尾形の事務所スタッフが糸井重里の方が適任だと紹介し、
糸井氏がキャスティングされることになりました。


雑学その4:トトロの名前の由来は「眠いよー」?

「トトロ」の名前の由来はメイに名前を問われた時、
トトロが「ドゥオ、ドゥオ、ヴォロー(眠いよー)」という声を上げ、
これをメイが名前だと思い込んだことによります。


雑学その5:作品の舞台って実在するの?

時代設定は昭和30年代初頭とされているんだけど、
宮崎監督は「テレビのなかった時代」と述べていて、
特定の年代を念頭に置いて演出したわけではないそうなんだ。

後に宮崎監督は、
1953年を想定して作られたとも述べているんだよ。

宮崎監督は、トトロと主人公たちが住んでいる
緑豊かな集落のイメージの由来について、
かつて在籍した日本アニメーションのある聖蹟桜ヶ丘、
子供のころに見て育った神田川、
宮崎監督の自宅のある所沢、
美術監督の男鹿和雄のふるさと秋田など様々な地名を挙げていて、
作品の風景はこれらの風景が入り混じったものであって、
具体的な作品の舞台を定めたのではないとしているんだ。

その後、宮崎監督が
1990年代から狭山丘陵の「トトロの森」保全運動に携わったり、
所沢の地名が形を変えて作品に取り入れられていることもあって、
所沢市がその舞台として紹介されることもあるんだ。

作品に登場する固有名詞には
埼玉県所沢市から東京都東村山市にかけて広がる
狭山丘陵の地名を元にしたものがあるよ。

また劇中、草壁家の引っ越しの場面で
「狭山茶」の張り紙をした箱が登場してるんだ。


雑学その6:サツキとメイが生まれるまで

「となりのトトロ」の原型となる構想は、
宮崎駿が1970年代に日本アニメーション、
そしてテレコム・アニメーションフィルムに在籍していたころに
書き連ねていたイメージボードに残されているんだ。

この時点では主人公の女の子は1人で、
メイに似た外見をした5歳の女の子であり、
サツキとメイの外見のデザインや性格が
混ざり合ったようなキャラクターだったんだ。

テレビのスペシャル番組などへの採用を模索していたんだけど、
当時企画書は通らなかったんだ。

宮崎駿監督によると、
主人公の女の子がトトロに出会う場面について、
「雨のバス停」と「昼間」との
2つの場面を思いついてしまい悩んでいたところ、
映画化決定の1年前になって
主人公を2人の姉妹にすることを思いつき、
サツキとメイの2人が生まれたそうなんだ。

一方で、現在のスタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんは、
2008年放送の特別番組の中で、
「もともと同時上映の『火垂るの墓』ともども60分の尺の予定が、
『火垂るの墓』が90分に延びることになったので、
じゃあトトロも80分以上にしようって話になった。
どうやって20分も延ばすか悩んでいたが、
宮崎監督が『主人公を姉妹にすれば、20分くらい延びるだろう』
と言い出し2人になった」
と語っているんだよ。


雑学その7:「となりのトトロ」の企画が動き出すまで

宮崎監督は『天空の城ラピュタ』の公開を終えた後、
1986年11月に「トトロ」の企画書を徳間書店に提出したんだ。

でも、舞台が昭和30年代となっていることや
題材が地味であることに加えて、
当初60分程度の中編映画として企画されていたために
この映画だけでの全国公開は難しかったことから、
制作企画会議において承認を得ることは出来なかったんだ。

そこに、高畑勲が検討していた『火垂るの墓』を同時上映する案が浮上し、
徳間書店の社長である徳間康快の要請で、
『火垂るの墓』の原作小説を刊行している新潮社が
『火垂るの墓』の出資、製作に参加することになり、
中編映画2本体制が確立したんだよ。

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